矢作町二区祭礼山車保存会
                               

やはぎの里まつり2016

新世紀岡崎チャレンジ100プロジェクトの企画として私達も『やはぎの里まつり2016』と題し参加することになりました。
本企画の主な催しとして次の3つを予定しています。
 
 A. 10月1日に矢作町の二両の山車を合同で引廻しを行います。
   雨天の場合は2日を予定しています。
 B.10月1日、2日に矢作町の歴史や秘蔵の文化財を特別拝観でき
   ます。3ヶ所の歴史探訪スポットを回ると、ゴールのやはぎかん
   で記念品をゲットできます。
 C. 9月上旬から10月2日までの間で、やはぎかん一階ホールにて
   矢作町で保有していた四両の山車の歴史と、矢作町内の歴史
   探訪スポットを写真でご覧戴きます。

各写真はクリックすれば大きくして観ることができます。
ポスターを更に大きくして確認する
http://www.geocities.jp/g_craft01/yahaginosatomatsuri/B2.jpg

パンフレットを更に大きくして確認する
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http://www.geocities.jp/g_craft01/yahaginosatomatsuri/nakamen.jpg

 
   

やはぎの里まつり2016 パンフレット〔表面)
山車引廻し案内と歴史探訪スポットの紹介をご覧ください。
やはぎの里まつり2016 パンフレット〔裏面)
山車引廻し経路と催し予定時間 及び、歴史スポットの場所を示した地図をご覧ください。
10月1日二両の山車(東中之切と西中乃切)が矢作神社に集合し、祭事の後、9時には神社を出発し、やはぎかんを経由して矢作の町の中を二両の山車が引廻されます。
200年の歴史のある華麗な祭礼山車の雄姿と、伝統のお囃子の音色、練習を重ねて来たお子様の手踊りをご披露致します。
一区祭礼山車『東の切』
現在は知立宝町にて保存されています。平成28年5月2日知立まつりの様子
後ろの車輪を浮かせたまま知立神社鳥居を進む引き廻し技法は迫力満点です。
二区祭礼山車『東中之切』
平成23年10月引廻しの様子
矢作神社から堤防道路への急坂を引き手全員が力を合わせて山車を引上げる様子は圧巻です。
『東中之切』の水引幕は平成26年2月に新しい幕に作り替えました。鳳凰と麒麟を描いた真新しい飾り幕をご覧ください。
三区祭礼山車『西中乃切』
平成26年10月引廻しの様子
矢作町三区の山車保存会の方々の熱心な保存活動により、良好な状態で祭礼山車を維持されています。お囃子の継承も組織的に行われており、素晴らしいお囃子の音色をお聴きください。

四区祭礼山車『西の切』(上の切)
現在は南知多山海西村地区にて保存されています。
矢作町四区の岩月様がこの山車のレプリカを精巧に造られ、現在やはぎかん一階ホールにて保存展示されています。
日本武尊陶像
【矢作神社】
315年頃(景行天皇の時代)、東夷征伐の際に日本武尊は、地元の民から賊の退治を依頼された。日本武尊は矢作部に矢を作るよう命じた。矢を作る竹は川の中州にあり竹を採ることが出来ずに困っていた。そこへ一匹の蝶が現れ、人の姿となり竹を採ってきた。矢作部はこの竹を使って1万本の矢を作り、日本武尊は素戔嗚尊(すさのうのみこと)を祀り、賊を討ち果たしたと伝えられる。この矢竹の一部が矢作神社にある矢竹やぶであり、この故事により矢作神社と呼ばれるようになった。
うなり石と矢竹やぶ
【矢作神社】
1083年、源義家が陸奥守として奥州に向かう途中に、日本武尊の故事にならい矢作神社に参拝されたと伝えられる。1335年、新田義貞が足利尊氏との戦で戦勝祈願を行った際に、神社の前にあった石が唸った。これを神の加護と信じて戦い、新田義貞が勝利を収めたといわれる。この時の石がうなり石と呼ばれ、矢竹とともに祀られている。
騎馬武者図絵馬  宝暦十二年(1762年)
【矢作神社】
狩衣姿の武者が白馬に乗る図。 内田宗胤筆。 矢作橋5回目架替え時に奉納された。
蓮如上人像 文明十六年(1484年)
【勝蓮寺】
絹本着彩、高麗縁畳に座し念珠を爪繰る斜左向像で、その顔はまた五十代の張り切った姿に現されている。 
また図上に「弘誓強縁多生、難値真実浄信、億劫難獲遇獲、行信遠慶宿縁」の讃を記し、その下に「本願寺釈蓮如」と書かれている。

松平信康像 江戸中期
【勝蓮寺】
絹本着彩、風折烏帽子に狩衣をつけ、右手に中啓、左手で刀をおさえ高麗縁の畳に座する像で、その面貌は二十代とさえ思われる。
徳川信康は家康の長子で秀忠の兄である。天性豪勇にして粗暴の振舞い多く、依って信長の逆鱗にふれ、天正七年死を賜う。

薄墨の笛
【誓願寺】
義経が浄瑠璃姫に贈った名笛[薄墨]
浄瑠璃姫伝説
矢作の里の長者兼高夫婦は日頃から鳳来寺の薬師瑠璃光如来を信仰し、女子が授かったので浄瑠璃姫と名付けた。
源義経が東北地方への旅で矢作の里を訪れた時、兼高長者の家に宿をとった。逗留のある日、一室から静かに聞こえてきた美しい琴の音にひかれ、持っていた笛で吹き合わせたことから、何時しか二人の間に愛がめばえた。義経が別れの際の形見として名笛[薄墨]を姫に授けた。姫は笛を大切にしていたが義経を想う心は日ごとに募るばかりで、ついに後を追いかけたが叶わず、姫は添うに添われぬ恋の悲しみのあまり、菅生川(乙川)に身を投げて短い人生を終えた。失意の兼高長者はその遺体を誓願寺に埋葬した。
紫石伝説地
【矢作町金谷】
矢作の八幡宮に奉納されたという兼高長者の紫色に輝く庭石を掘り出そうとした者が現れ,紫色に輝いたが、また地中深く埋まってしまったという伝説が伝えられています。
松平親氏位牌
【光明寺】
九世浄開上人の時代に、諸国御札修行の時宗法主の遊行上人が、僧となった
長阿弥、徳阿弥父子を伴い当山に入山し、7日間修行を行いました。徳阿弥はその時、病に倒れますが、浄開上人の手厚い介抱により平癒したことで当山に因縁を持ち、後に松平郷に入り還俗し松平親氏と名乗ってからも折々当山を
訪れ、本堂を再建し、位牌二基を納めたと伝わります。
阿弥陀如来法身絵像 文明十八年(1486年)
【柳堂寺】
蓮如上人が三州逗留の際に草庵を建立されて「この地は柳堂の故址なり」との説法があり、親鸞上人ご真筆の阿弥陀如来法身絵像の裏書をされ、かつ自らご真筆の六字名号を賜りました。
出合之像
【矢作橋西岸】
尾張の愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の農家に生まれた日吉丸(後の豊臣秀吉)、がいろいろな仕事を転々とした末、今川義元の家来・松下嘉兵衛の下で奉公していたのですが、上手くいかなくなり、その家から出ることとなりました。尾張に向かう途中、日吉丸は岡崎の矢作川の橋で野武士の頭領・蜂須賀正勝(通称:小六)と出会いました。
失意の日吉丸は今後、誰のもとに仕えればよいのか小六に尋ねると、小六は「織田信長」と答えました。
その後、日吉丸は名前を木下藤吉郎と改め信長に仕え、小六は藤吉郎の下で働くことになりました。

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