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ホーム > 防犯・防災全般 > 防犯防災特集No.9 平成30年8月「フクシマ3.11被災地研修と母畑温泉の旅の報告 (H30.10.26)

 私がこの旅の連絡調整の役目を担うことになったのは、会の運営に熱心な清水会長の体調が最近思わしくなく、話すことも辛そうだったので、7月10日にお手伝いを申し出たからです。
 それ以降、清水会長と連絡を取りながら、富岡社協に被災地視察での協力を依頼するとともに、旅行日程や移動時間等での連絡調整を進めたところ、富岡社協から説明案内役として「富岡3.11を語る会」の仲山弘子さんを紹介していただきました。そして、8月5日(日曜日)、高速道路のパーキングエリアで仲山さんと合流して、その案内で富岡市内をバスの中から1時間ほど視察し、途中、第二原発を遠望しながら、時には2回ほどバスから降りて見学をするなどして、お話を伺うこととなりました。

-「富岡3.11を語る会」仲山弘子さんのバスの中からの説明内容 -

「富岡3.11を語る会」の仲山さんは、東川口でも避難生活を経験したとのことでした。以下は、視察先をバスの中から案内してくれた語り部仲山弘子さんのお話の内容です。
 富岡町で3.11の地震津波に遭う。そして、「原発事故で町民は退去せよ!」と。昨年4月に町の約9割で避難指示が解除されたが、今日、富岡はどんな姿をしているか、よく見てほしい。
 東日本大震災の避難生活は3月12日から始まっている。「川内村へ逃げなさい!」。しかし、道路は大渋滞。町民1万6,000人弱の3分の1が山へ向かう。

 当時は田んぼが広がっていたが、今は草だらけ。(ところどころ、ソーラーパネルが設置され、緑からシルバーに変わっている。) ソーラーパネルは未来のエネルギーといわれるが、複雑な心境。田植えする場所が、今は農業を諦めて、ソーラーパネル。米を作っても買ってくれない。風評でなく、放射能が降ってきて駄目ということで、諦めた。車の窓を開けたら閉めること、そして早く通り過ぎること。(バリケードで街は立ち入り禁止の場所も。原発事故、どんな気持ちか恐ろしかった。)
 私はテレビを避難先で見た。「危険だから逃げなさい!」と言われ、逃げた。(車中でお話を聞きながら黒い除染袋がたくさん見受けられた。)
 (海小浜・富岡漁港近くの高台でバスを止め、説明を聞く。) 堤防は8.6メートル、低いところは6メートル、崖の上まで30メートル。ここは大きな結婚式場のあるホテルがあった場所で、今は跡形もない。(前方に太平洋、右手に第二原発が遠望できた。)

 この町に役場はなく、郡山にある。1年から2年後に避難関連情報が届くようになった。仮設避難所には情報は届く。富岡仮設住宅には町全体の13パーセントが入居。1万人以上は県内の他市町村や全国各地に避難。私は東京、埼玉県の東川口にお世話になった。支援物資は届かず、ボランティアの慰問もない。その代わり、避難先の自治体に商品券でお世話になった。赤十字義援金は全員に支給された。
 祖母は車椅子。叔父叔母は家族で行動した。母は、知っている人の所は恥ずかしいとデイサービスには行かなかったが、避難してからは寂しいのか行くようになった。東川口でも祖母はデイサービスに行き、親しい人との出逢いもあった。
 母は子供たちの中では頑張っていた。車の中で一人になって泣いた人もいたという。再会した友達は、車の中はしんどかったと皆が言っていたという。引っ越し先で子供の学校のことで悩んでいた人もいた。避難先で家を求めたり、避難生活が長くなったりして、若い人は帰ってこなかった。

〜後編に続く〜

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【文責:≪福祉で防災ネットワーク≫ 豊島】
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掲載:TOMATOホームページ事務局(校正M.Y/編集S.Y 2018/10/25)

 
情報掲載日:2018/11/02
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