特定非営利活動法人 東京市民後見サポートセンター

江戸人の死生観 雑感

 暑い夏の午後、居間で漫然と読んでいた本(森銑三著作集)に、江戸人の死生観を示す、とても興味ある逸話を見付けましたので、抜粋を拙い現代文に意訳してご紹介します。(Y.H)

『清水如水(墓碑銘如睡)、別号藤根堂は狂歌の名人で、江戸横山町(日本橋)に住んでいた。ある時、大和法隆寺の宝物に、賢聖を彫った瓢箪があるのを見て、そのまねをして瓢箪に彫物をしたところ、鈍刀を用いたにもかかわらず、その巧妙さが人の目を驚かしたので、皆がもてあそび(玩)物とした。・・・
ある年、江戸に朝鮮通信使が来た時、ある人がこの瓢箪を持って行って通信使に見せたところ、驚いて「中国にもこのような物を見たことがない」と云って、三國無双と賞美したということである。・・・
朝鮮通信使がほめて、三國無双と人々がもてはやしたのを、自分もその通りと自讃していたので、ある人がからかったら、
 三國にならびなき名はあし引きの
  山は富士の根我は藤の根
と狂歌を詠んだ。その意味は、如水は何時も酒を好んで飲んでいたが、酔っていない時はしょんぼりとして物も言えず、飲んだ時はのびのびとして、勢いよく徘徊して歩いていたので、人がその姿を見て(藤の花は根に酒を吸わせるとよく育つという説に似せて)、藤根堂と名付けたのを、自分の別号としたことを詠み入れたのである。
さて享保元年(1716年)正月の三日、朝起きて、硯を引きよせて狂歌を書いた。
 公事(くじ)喧嘩地震雷火事晦日(みそか)
  飢饉煩(わずらい)なき國へ行(く)
と詠んで、正月五日の夕暮に湯あみをして髪を剃り、手拭いで坊主頭を包み隠し、いつものように、伊勢神宮(を祀った神棚)の幣帛を拝んでうつ伏した。如水の妻はいつものことと思って、押し動かして見たところ、いつのまにか息が絶えていた。行年七十二歳で少しも病苦がなく、このような臨終ができたことを、正月にもかかわらず誰も忌み嫌わず、あやかり物にしたいと、その頭を包んでいた手拭いを裁って持ち去った。・・・』

<雑感>
自分の死期が直前に感じ取れるという、本文のような実感(別に言えば動物的本能)は、医療技術が進歩(邪魔?)している現代人には、希薄になっているように感じられてなりません。それでもやはり、江戸の一般庶民にとって、このような死に方が羨望の的であったことは、現代人と変わりなく、微笑ましくもホットしますね。

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