観光ボランティア鴻巣ガイド会

箕田公民館講座『箕田地区探訪』:宝持寺⇒氷川八幡神社/箕田碑⇒平右衛門遺跡へ

開催日:令和4年5月29日(日)9時30分集合
参加者:18名
ガイド:箕田源氏の故郷/鴻巣ガイド会、平右衛門遺跡/公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団
 箕田公民館の島村館長から、当初は2月13日(日)に開催の申込みがありお引受けしたが、コロナ・オミクロン株の感染者が急増してきたので、直前にお断りした。新年度になり再度計画され、市の広報誌で参加者が募集され、5月29日(日)の開催に漕ぎつけた。
 当日は快晴であったが、今年最初の「真夏日」となり暑い日になった。9時40分に箕田公民館を出発し、平安時代の武将渡辺綱ゆかりの「宝持寺」に向かった。 (熊谷)
←氷川八幡神社にて、参加の皆さん

箕田公民館の島村館長から、ご挨拶と注意事項の説明があり、1班・2班の班分けがあった。右手前の赤いユニホーム姿は、鴻巣ガイド会の岸井会長。
9時40分に1班からスタート、用意よく日傘をさす人もいる。
参加者の行列、後方の建物は箕田公民館、左折して高崎線の踏切方向へ向かう。
朱塗りに山門は、曹洞宗の曹傳山美源院宝持寺。約千年前に嵯峨源氏の系譜を引く渡辺綱が、祖父:箕田源氏の祖源仕(つこう)と父:源宛(あつる)の菩提を弔うために開基したと伝えられている。
本堂の左側にある「箕田源氏三代」の顕彰碑、「嵯峨源氏顕彰会・全国渡辺部会」が設置した。
本堂脇の日陰に入って、箕田源氏について説明。綱の祖父の源仕(つこう)は嵯峨天皇の第12皇子の源融(とおる)の孫。融は左大臣を22年間勤め、源氏物語の主人公・光源氏のモデルの一人と名指しされた。
本堂に上がって、陳列棚の中のお宝を拝見。綱の末裔の渡辺十兵衛が奉納した五尺余の太刀や位牌、三代将軍家光から拝領した5石の朱印状ほか。
本堂の襖絵に見入る。本尊の釈迦如来坐像は、鎌倉時代の制作と推定される。なお、2025年10月5日に「渡辺綱公千年祭」が計画されている。
次の目的地「箕田氷川八幡神社」に向かう。宝持寺のすぐ前(西)にあり、旧中山道に面している。
「箕田氷川八幡神社」は、明治6年、当時箕田郷にあった氷川社、八幡社など20余社を併合して、箕田郷の郷社として八幡社のあった現在地に祀られたものである。
直射日光を避け、日陰で説明を聞く1班の人たち。「氷川社」は、承平8年 (938)清和天皇の孫の源経基(つねもと)が武蔵の国の国介になって当地に赴任した際、大宮の氷川神社から勧請したと伝えられる。
2班の人たち。「八幡社」は、源経基の臣下であった源仕が天慶4年(941)に現在地に京都の岩清水八幡宮から勧請したものである。仕の孫の渡辺綱によって神田(八幡田の地名あり)が寄進され、再興された。
「箕田碑」:箕田源氏に関する伝承を碑にして永く後世に伝えようと、宝暦9年(1759)に地元有志が埼玉郡上之村(熊谷)の龍淵寺三十世で全国的にも著名な曹洞宗の学僧指月慧印(しげつえいん)に依頼して撰文したもの。
碑文は源経基の無量寿堂建立の伝承に始まり、箕田の地と源仕や綱との関係が述べられている。背面には、渡辺綱の辞世の和歌と芭蕉の句などが安永7年(1778)に追記されている。
交通量の多い旧中山道は避けて、裏道で次の目的地「平右衛門遺跡」第3次発掘現場に向かった。
国道17号上尾道路の建設工事が始まると、次々と遺跡が出て、埼玉県埋蔵文化財調査事業団により発掘調査が行われている。
第1次〜第2次調査では、古墳時代末期〜奈良時代初め頃の大型住居跡や中世の溝跡などが発見された。調査が終わると埋め戻され、高崎線をまたぐ形で建設される高架橋の橋桁がすでに出現していた。
「平右衛門遺跡」第3次調査が行われている場所。ここは大宮台地の西北端部にあたる鴻巣市箕田にある集落遺跡である。
今回の第3次調査では、奈良・平安時代の竪穴住居跡、中・近世の深い溝跡や土壙、井戸跡などが発見されている。
埼玉県埋蔵文化財調査事業団の人から詳しい説明があり、質疑応答も行われた。
見学後は、また裏道を通って箕田公民館に11時45分に戻った。朝礼を行った集会室で、島村館長から閉会の挨拶があり、終了した。一人の落後者もなく、無事に終わることが出来た。
終了後、鴻巣ガイド会の熊谷が昔話を二つ朗読して、お聞きいただいた。
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◆崗”蘊造里呂覆掘廖Αμ田源氏の源宛(あつる)と平将門の叔父で熊谷市の村岡に居を構ていた桓武平氏良文との一騎打ちの話。
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