鳩まめ倶楽部

 辻子谷の伝統製薬業を尋ねてー ものづくり・東大阪ー

    「水車郷がありました」

 昭和初期、生駒西麓には100輌以上の水車が回っていたそうです。水車は、江戸時代から延々と製粉・漢方薬・伸線工業などに利用されてきました。電気が普及すると急速に数を減らしてしまいました。
 音川(おとがわ)沿いに栄えた石切地区の辻子谷(ずしだに)※でも、最盛期は40輌を超えたそうです。今は現役の水車はなくなってしまいました。 詳細は次をクリックください。http://www.do-natteruno.com/con_c/c207/c207.html

 道修町で漢方薬の勉強をした小西さんは、父親に水車を残すよう献言しますが、時代の趨勢で叶いませんでした。最後の水車が停まったのは1982年。小西さんは、近代的な工場経営を目指しながら、辻子谷工場に残された“一本胴撞き(いっぽん・どうつき)”の設備を活かす道を選びます。
  三代目の小西秀和社長
 小西さんが子どものころは、辻子谷には水車がいくつもありました。道修町(どしょうまち)※との往来には牛車も使われていました。
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